09: 星だまりの海ではじまりのキスをした
静かな湖だった。時々、夜の風が、湖面を渡って足跡さながら漣を起こす。
―――眠れない。
スザクがそう呟いて、ベッドを抜け出したのはつい小一時間程前の事だ。
故郷を離れ初めて足を踏み入れた国は、空気の色も、習慣も、余りに違いすぎて馴染めない。加えて、周囲の目が気になってしまい、日課もこなせなかった。いつもならすぐ訪れる眠りも、今夜ばかりは遠慮したのか、遠くからスザクを窺っているばかりだ。
眠れない夜に見切りを付けて、スザクはベッドを抜け出した。申し訳程度に置かれた室内履きは無視し、裸足で部屋を横切り窓を開け放って、清涼な空気を吸う。そのうちいても立っても居られず、衝動的に窓の外に飛び出した。
ホームシックなんて、甘いことを言ってる場合じゃないのに、
故郷を、恋しく思う気持ちは止められなくて。
―――だって戦争中は、想像もしてなかった!!
自分が政治の道具にされるなんて。
戦犯の家族として扱われるか、長男だから処刑されると思っていた。
まさか、こんな、地球の裏側に連れて来られるとは思わなかったのだ。
小路の両脇に植樹された広葉樹は天然のアーチを形作り、時折吹く風にかさかさと音を立てた。目前に突如現れる木の葉の影にも驚く事無く、スザクは、空を遮る物がない場所を探して走った。
元々、王宮の外苑に近い場所にいた。この辺りは市街の反対で、人工の森もいずれは尽き本当の“森”になる。 ―――スザクはそんな事を理解していたわけではなかったが。
境界を越えた。そう断じたのは、スザクの直感だ。
人の出入りのない場所は、大気の密度が濃くあまい。空気の香が違う。もちろん、実際の匂いではないが、曲がりなりにも神社の杜を遊び場にしていた子供である。感受性は鋭い。
ばくばくと波打ち溢れそうだった何かは吐く息と共に排出され僅かずつではあるが鎮まってきた。ランナーズハイのような平穏さで、脚は勝手に前へ前へと運ばれていく。
初めて行く場所なのに、こんなのはおかしい。スザクはうっすらと考えたが、それも空気の心地良さに掻き消えた。乾燥した甘い大気に、清んだ水の香が混じりはじめる。同時にちらちらと、木の影とは違う闇が頭上に現れるようになる。
―――やがて、眩しく輝く光源がスザクの眼前に姿を表した。
湖だ。
水の香を考えれば別段不思議なことはない。
ただ不思議なのは、湖が完全な円形をしていること。中心部の水深はごく浅そうに見えるが、それはこの水が恐ろしいほど澄んでいるからだ。それほど大きくはない。湖と言うよりは泉の様な。
試しに手を入れてみる。ぴり、と痺れる心地がした。凍りそうな程に冷たい。
手で水を結び、口許に運ぶ。熱を持った身体が、水の通った場所を中心に鎮まっていく様だった。
数口を含み、口の中を潤して満足したスザクは立ち上がった。そして、訝しげに対岸に眼を向ける。
星が眩しく映り混む湖面を視線でたどり、一際眩しく輝く月の影を見た。
そして、
それを傲然と眺める女が居た。
おかしな服を着て、珍しい色の長い髪をしている。
女は小さく呟きを零したようだった。
すると不意に視界が明るくなって、スザクは咄嗟に眼を手で覆い、光源―――水面に映った満月―――を見た。
まるで水面下に小さい太陽が生まれたようなそれはけれど数秒で収束する。
だんだんと戻る視界に、女がこちらを見たのがわかった。
熔けそうな蜜色の瞳を愉悦に細めて笑う顔は、人のものとも思えず。
薄い唇が動くのが見えた。
「おまえか」
だがスザクの視線は水面を叩くぱしゃん、と言う音に吸い寄せられた。
先ほどの発光源と思しき所に、人影が増えていた。浅瀬だったのが幸いだったのか、ぺたんと座り込んで放心しているようだ。
女の知り合いかと思い、探したが、彼女の姿はいつのまにか消えていた。
さっきから、顕れたり消えたり、おかしな事ばかりだったが、現実を忘れたいスザクには好都合だった。スザクは湖の辺を走り、ばしゃばしゃと水を蹴散らして人影に走り寄った。
「何やってるんだよ、こんな水の中で!」
驚くほど細い上腕を掴み
(下手をしたらスザクより細いかもしれない、一回りは大きな大人なのに、)
揺さぶると、彼は
(肌が白い、)
ふわりと笑んで
(肌に張り付く黒い、)
―――スザクを引っ張り思い切り抱きしめた。
「スザク、」
「ルルー、シュ?」
見知らぬ人間
(人間なのか、彼、は)に名を呼ばれた。不思議と不快感はなく、むしろ…
(それに、)
勝手に自分の口から滑り出た名前にスザクは驚いた。この類の名前は、まだ今日になって(既に昨日か)数えるほどしか教えてもらっていないがその中にこんな名前はなかった、筈だ。
だがそれが彼の名前だと言うのは、ますます強くなった拘束力に、すぐにそれと知れた。
「…っと、」
「え?」
「名前を、」
呼んで、くれ。消え入りそうな声音で嘆願、されてしまう。
「‥ルルーシュ、」
「…」
「ルルーシュ、ルル、ッ」
「スザク、」
冷たい手がスザクの頬を覆った。
先の女の笑いとは全く違う、とろけるように幸せそうな(まるで夢を見ているような)
笑みを浮かべている。
漆黒の髪から顔に落ちかかり流れる雫は、まるで、
「やっと、」
次の瞬間、軽く合わせられた唇の感触を、スザクは生涯忘れないだろうと思った。
魂を奪われる恍惚と、同時に満たされる寂寥と。
(あぁ)
ただただ、只管に
(懐かしい、)
きみの、なまえ。
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20071211
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