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僕は目の前に座る彼を見た。象牙の肌、瞬いたら風が起きそうな長いまつげ、赤い唇。こくこくと、小さな掌が小さなカップを持ち上げてミルクを飲む動作と共に喉を嚥下させる。
僕はそんな彼の様子をぽおっと見ていたけれど、手にしていたトーストのトッピングのチーズが手に垂れてきたことで我に返った。
「あつ!」
けれど彼はそんな僕に一瞬だけ流し目を―――切れ長の目で見られると冗談でなく身が竦む―――くれて椅子からさっさとおりると、ドレスの裾を気にしながらベッドによじ登り、図鑑を広げた。最近の彼のお気に入りは動物図鑑で、お気に入りのページは栗鼠と兎のコーナーだ。好きなのかな、飼えないことはないけれど、と栗鼠と戯れる彼を想像しながら僕は彼の様子を伺って、ふと目に入った目覚まし時計の表示に慌ててトーストを平らげた。
歯を磨いて顔を洗って、ネクタイを締めてジャケットを腕に抱える。研究所までは走って三分。
「じゃあ行ってくるね」
彼に声をかけるけれども、一瞬視線が交わったあと、つーん!とそっぽを向かれて僕は落胆した。
これは、どう見ても拗ねているようにしか見えない、けれど。
僕が一体何をした?
「…んだと思います?」
僕は店主に泣き付いた。彼が狭いわが家に住み処を移って早三週間。今日は彼の食事であるミルクを買いに来たわけだが、早く帰らないと真っ暗になってしまう、と僕の焦燥感は募る。僕の所属する特別派遣嚮導技術部、略称特派は新型兵器を開発する技術部で、僕はその唯一のパイロット。身体が資本と言う事で、他の職員が趣味と実益を兼ねて仕事をしている中、以前だったら僕にもお手伝いできることはないかと思ってやきもきしていたけれど、今は規則正しい生活を送るためとうそぶき、定時に上がるようにしていた。 理由は勿論、彼が家で待っているからである。
「拗ねているな、それは」
「ですよねぇ」
なのに何故僕が家にも帰らずうだうだと店主に絡んでいるのかと言えば、それはもちろん彼のことに外ならない。
「最近は、ミルクの量も減ったみたいで、心配なんです」
「砂糖菓子は」
「食べてますけど、やっぱり減ってますよう」
「ではお前の愛情は?」
「…少ないとは思いませんけど…」
正直な所わからない、というのが本音だ。だって、他の人がプランツを世話してる所なんて見た事ないし、僕自身、小さい頃はお人形遊びよりも外を駆けずり回って虫やら鳥やらを捕まえる方が好きなアウトドア派だった。けれど彼は、虫が来れば嫌がって逃げるし、温度変化にも弱いから余り外に出たがらないのだ。
「まぁ、やつは最上級品だからな。性格に難があるのは仕方ない」
「…そういえば、」
最上級という一言で思い出した事を僕は聞いてみた。「プランツってしゃべるんですか」
「…普通はしゃべらない、が、あいつくらいのレベルになればしゃべることもあるだろう」
「へ?」
僕は肯定されるとはあんまり考えてなかったので思わず間抜けな声を上げた。
「あいつの顔を見てみろ。お前より余程利発そうな顔をしていただろう最初から」
「はぁ」
聞き捨てならないことを言われた気がしたけれど一瞬考えてそうかもしれないと思った時点で僕は負けを認めた。確かに僕は勉強が嫌いだ、難しいことも。
「あいつは情緒作用レベルが特に特化したタイプだろう。そうなれば、気難しくなるし、好みもはっきりしてくる。それに、情緒豊かということはそれだけ高度な精神活動が可能だと言うことだ。欲求を伝えるのにしゃべることも、絶対にないとは言い切れない」
「じゃあ、彼がしゃべったのも僕の夢じゃないかもしれない、んですね」
「そうだ」
「…で、最近彼が僕に冷たい理由は何だと思いますか」
僕は本題に戻った。彼の情緒レベルが高いことは何となく予想していた。彼はここにいるプランツの誰よりも利発そうな顔立ちをしていたし、図鑑がお気に入りだと言うと店主が驚いた顔をしたことで、他のプランツとは違うんだな、ということは何となくわかった。
問題はその彼を僕が扱い兼ねていることだ。
店主は蜜の様な眼を瞼に半ば隠し、細い頤に手を宛てて考えながら呟いた。
「お前の独占欲を見ていれば、愛情が足りないと言うこともないだろうしな…」
「は?独占欲?」
僕は聞き返した。全くないとは思わないが、それを匂わせる言動もしていなかった様に自分では思っていた。
「自覚していないのか?お前はこの期に及んであいつの名前すら私に教えていないのだぞ」
名前を呼ぶことは相手を認め愛するのと同義だろう、お前はそれすら他人に許さない位あいつに溺れているのだろうが。
そう言われて僕は目から鱗が落ちた。目を瞬く。そんな僕の様子に気付いたのか店主は心底呆れたような口調と目付きになった。
「人間が子供に初めて贈る贈物は名前だと言われているが、プランツだとて同じだ。特にあれだけの逸品になればな。下手な人間の子供よりは賢いだろうよ」
「僕帰ります、ミルクありがとう!」
僕は大慌てで車に乗り込んだ。ああ、僕はなんて大馬鹿なんだろう!彼より間抜け面なんて、言われて当然だ!!!
「ただいま!」
彼はベッドの上で丸くなっていた。部屋の中は真っ暗だ、夜になれば植物の彼は眠りについてしまう。けれど、今日はまだミルクを飲ませていないのだ、寝てもらっては困る、と僕はベッドの上の彼を揺り起こした。
彼は不機嫌そうな色を紫眼に孕ませ、つん、と僕とは反対に顔を向けた。
僕は今までの何倍も悲しい気持ちになって、けれど彼が起きているのを確認したからキッチンにミルクを温めに言った。人肌程度に温めて、カップに注ぐ。遅くなってしまったお詫びに砂糖細工の飴も添えた。
ベッドの上に行儀良く鎮座してミルクを温める僕を見ていたらしい彼にカップを渡して、彼がミルクを飲む様子を見ていた。思えば、彼の笑顔は日が経つに連れて曇っていったようだった。淋しそうな微笑みから、ぎゅ、と縋り付くように眠る様子が可愛くて、僕はそれだけで舞い上がってしまったのだけれど。
それで良い筈がなかったのだ。彼は、生きているのだから。
悲しい顔なんて、もう二度とさせたくないから。
「君の名前を考えたんだ」
ぴくり、と動きがとまった。
小さな手は、ぎゅっとカップの取っ手を握る。
―――…その手が僕の胸に縋るように寄せられたのは、いつだったろうか。
小さな手は、僕の家に来た朝、確かな熱を帯びて、僕の心臓の上に宛てられていた。
夜、寝ている彼の隣に横になると、朝にはいつの間にか懐深く潜り込む彼の頭は、僕の鼓動が聞こえる胸に寄せられていて。僕はその様子をみるだけで、可愛くて可愛くて堪らなく彼が愛しく思えた。けれど、それは彼の淋しさから来る行動だったのかもしれないと思うと、自分の馬鹿さ加減に絶望したくなるほどだ。
だから、彼が今僕の声に反応してくれることに、僕は泣きたくなるくらいの安堵を感じている。まだ間に合うだろうか。許してもらえるだろうか。
恐る恐る、けれど大事に、声が震えないよう、そっと、舌の上で転がすように、考えた彼の名前を口にする。
「ルルーシュ」
止まったままだった彼が、僕を見た。その目が不思議そうな色を掃いていたので、僕はもう一度、今度は恐れの代わりに愛しさだけを込めて、名前を呼んだ。
「ルルーシュ」
ルルーシュ、と彼は口の動きだけで繰り返して、はんなりと笑った。
それは、初日に見せてくれたとろけるような笑顔で、僕は真剣に感動してしまった。
そして、ぽたぽたと、頬に濡れた感触を感じて、僕は感動のあまり涙を流していることに気がついた。
「うわ」
慌てて袖で頬を拭う。格好悪い。それでも、涙は止まなくて、僕は困ってしまった。僕ってこんなに涙脆かったかな?ルルーシュが見てるのに恥ずかしい、そう思ってがむしゃらにワイシャツの袖で涙を拭っていると、ふわりと良いかおりが漂って来た。顔をあげると、ルルーシュがベッドから下りて、小さな手を僕に向けて差し出していた。ルルーシュの背丈では頬に届かないけど、涙を拭ってくれようとしているのはわかった。
「ごめん、ありがとうルルーシュ」
僕は頑張って笑顔を作ってルルーシュに向けた。ルルーシュはカップの横に添えてあった砂糖細工を取ると、僕の顔に近付けた。僕はルルーシュを抱き上げた。
軽いけれど温かい体に僕はまた涙が出た。
「くれるの?」
僕に?聞くとルルーシュは眼や頬を緩ませて華やかに笑った。僕が口を開くとルルーシュが中に砂糖細工を入れてくれて、それは僕が今まで食べて来たどんな食べ物より甘くて幸せな気持ちにしてくれた。ルルーシュはいつもこんな食べ物を食べているから、こんなに素敵な笑顔をしているんだろうか、なんて頭の悪そうな感想を真剣に考えながらありがとう、と呟き咀嚼する。ルルーシュは酷く満足そうな、満ち足りた笑顔を浮かべて僕を見ていた。その笑顔はルルーシュがくれた砂糖細工の飴の何百倍も僕を幸せな気分にしてくれて、僕はその気持ちのまま、ちょうど眼に着いたルルーシュの額に唇を寄せて小さくキスを落とした。ルルーシュは擽ったそうな顔をして笑ってくれて、僕は、今度は本当に喜びだけで作られた笑顔を浮かべた。
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20080513
名前を呼ぼう 編。
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