(3)




 おかしな夢を見た。
 狸と狐が密談をしている。しかし異種族であるせいか会話が通じないようで仕舞いには喧嘩別れしてしまった。狐は歩いてルルーシュの家に来た。ナナリーが両足で立って、隣に並んだシャーリーとセシル女史とナナリーの主治医であったロイドがキッチンで料理をしている。目玉焼きを焼こうとしているらしいのにロイドはカラメルソースをかけると言って聞かず鍋に砂糖を煮詰めている。女性陣はその香に酔いいつの間にか目玉焼きは真っ黒焦げになってしまっていた。狐は慌てて逃げ出した。途端にナナリーは泣きそうな顔でルルーシュを振り返ったがその顔は既にナナリーのものではなく
「ルルーシュ…」
 スザクの大きな双眸から大粒の涙が零れ落ちていたのでルルーシュは慌ててポケットを探るが今日に限ってハンカチが入っていない。早く拭ってやらなければ世界が涙で溢れて島が沈んでしまう。その時のルルーシュは本気でそう考えていた。だから本気で慌てて、手近にあった筈のタオルの存在も思い付かず、流れる涙を指で拭った。涙だと思ったのはいつの間にか降り出した雨で、そこはいつもの堤防の上だった。高い波がきて、雨は強くて、あぁ、世界が沈んでしまう、とルルーシュは考えた。泣いているスザクと二人、海の底でも生きられるだろうかと考えて、考えて、考えて、迫り来るルルーシュの十数倍はありそうな津波の下を走るキツネはその手に真っ白なハンカチをにぎりしめていて、何てタイミングの悪い奴だとルルーシュとスザクは交互に悪態をついた。
―――所で、はっと、目を覚ました。

 図書室の控室。本と鞄を枕に眠ってしまっていたらしい。僅かに汗ばみ、右側頭部がずきずきと痛んだ。どくどくと、平常より少し早い鼓動が息苦しさを引き連れて、ルルーシュを窒息させようとしているようで気持ちが悪い。眠りながら体力を消費するなんてバカらしいことこの上ないな。ルルーシュは自嘲の笑みを浮かべて鞄を持ち上げた。今日はもう帰ろう、帰りに職員室に鍵を借りに行かねばならない。体も重いし、この本は明日、借りよう。
 そう考えて、ルルーシュは席を立った。

 余談ではあるが、ルルーシュの動作は静かだ。それは、目が見えないナナリーを驚かせないように極力大きな音を立てない事を自分に課した為の所作だったが、その静かな様子がルルーシュを同年代の賑やかしい少年達と一線を画す存在にしていた。
 その所作はもはや無意識の産物であり、ルルーシュ自身にどうこう出来るものではなかった。

 控室と図書室を隔てる扉は音もなく開いた。ルルーシュは本を返そうと図書室の最奥に向かった。全集と言うものは大体が図書館の最奥に配置されている。そして、図書室の壁というのは一際高い本棚が据えられ、その為の踏み台が置かれているもので、ルルーシュの長身を持ってしても手に持った本をもとの場所に戻すためにはその踏み台が必要だった。
 棚と棚の間に移動されてはいないかと間を確認して見ながら、一番奥までたどり着き、




「あ…ん」
「先輩…っ」




















 どこかのドラマか、
 小説か。



















 全くはしたないぞスザク、女の子はスカートなのだから裾にもっと注意を払えと言った筈だが下着が見えてしまうじゃないか今は見えていないがああそもそも身につけていないのか視界の端に写るあれはお前のなんだな状況から鑑みればぬがされたと思うべきなのだろうかそれとも自分で脱いだのかいやそんなはしたないそんな所を男に見せるな触らせるな!

 ルルーシュの手から力が抜けて全集がバサ、と音を立てて落ちた。あぁ本が、しかし本を返そうにも、なぁスザク、お前の座っている踏み台を俺も使いたいんだが、そうしなければ本は返せず俺は帰れない。
 その時ルルーシュはなぜかそんな脅迫観念に囚われていたのだ。本当は本を借りて帰るだとか控室に置かせてもらい明日朝一で片付けるだとか他にも方法はあったがその時のルルーシュには思い浮かばなかった。

 故に。

 音を立てて落ちた本、その音にこちらを振り向いた年下少年のあどけない表情に向けて
「すまないが、今日はもう閉館だ。鍵を取ってくる間に部屋を出てくれ―――スザク」
「…なに」
「この本をしまっておいてくれないか。お前の背中にしている本棚の、一番上だ」

 言い訳がましくならないよう、引き攣る頬を無理矢理笑みの形に持ち上げてルルーシュは微笑んだ。
 成功したかどうかはわからなかったが、年少の彼氏は慌てた風情で自身の乱れた服装を見、スザクを見ておろおろと周囲を見回した。
 ルルーシュは返事を待たずに踵を返した。本を手近な棚の空いたスペースに滑らせ、足早に歩く。スザクは鋭い視線でルルーシュの背中を追っていたが、ルルーシュはその場で言う事は何もなかったので、ただ、制服の襟元をく、と引っ張った。これで伝わるなら、後で話そう。










 図書室の鍵を借り、戻ってくる頃には人の気配は消えていた。施錠を確認し、再び職員室に帰ってどさくさに紛れて屋上の鍵を拝借する。
 通常の鍵とは別の南京錠を開けて外に出た。強い日差しに焼かれた後の黒ずんだコンクリートは独特の地熱を足裏に伝えた。西の空の太陽が橙の光を投げかけ、ルルーシュの左に長く黒い影を延ばした。
 白くコーティングされたフェンス越しに校庭を見渡せば、左手に見える校門に続く並木道の下に、ちらほらと下校中の生徒の影が延びているのが見えた。通じなかったのならそれはそれで構わない、とルルーシュは思っていた。スザクとルルーシュは他人だ。所詮他人なのだから、放っておけばよい。

―――出来るのか?

 自問した。
 放っておくことなど出来るのか?
 別れの言葉を告げられた。スザクはルルーシュの手を離したのだ。自分は?離したか?
 いや、離した覚えはない。そもそも繋がっていたかすら、自分はあの瞬間まで意識していなかった。ただ、他人より近くに居た感覚はあるし、赦されている気もしたのは本当だ。ナナリーにするよりも容赦なく、他人よりも身近に。

 だが、その間を繋いでいた糸は今失われつつあった。

 もう一度ルルーシュは自身に問う。

 手放せるのか?

 視界に入っているのに、
 まるで居ない者の様に、
 今のスザクがルルーシュに対する様に―――出来るのか?

(…否。)
 否だ。












 音もなくスザクが屋上に現れた。
 ルルーシュは気配を感じて振り返った。
「来ないかも、とは思わなかったの?」
「思ったさ。日が暮れたら帰ろうと思っていた」
「そう」

 スザクは褪めた目でルルーシュを見つめた。先の出合い頭の事故に対する言葉はないらしい。
「お前、あいつはやめておけ」
「…どうして?」
「スポーツ推薦で高校に行こうとする恋人の事を考えたら、あんな所で事に及ぼうとはしないはずだ」
「僕が誘った、と言ったら?」
「軽蔑する」
「話はそれだけ?」
 なら帰るよ、ルルーシュには関係ない。
 そう早口に続けて、スザクは背中を向けた。
「関係がないと、本当にそう思っているのか」
「思ってるよ」
「俺はそうは思えない」
 スザクの足が止まる。
「図書館なんて、いつ人が入って来ても不思議じゃない場所を選んだのは何故だ。」
 俺が。
「俺が居るかもしれないと、思ったからじゃないのか」


「自惚れだよ」

 くす、と笑った。
「場所を選んだのは彼だよ」
「だがお前も」
「ルルーシュ」
 言葉を遮る強さでスザクが名を呼んだ。
 スザクがルルーシュに歩み寄る。ルルーシュは無意識に後ずさった。スザクの双眸は差し込む夕日にも緩む事なくルルーシュに据えられている。だが、そこからは、ルルーシュには何の真意も読み取れなかった。
 その事に僅かの危機感を抱いたルルーシュは、さらにスザクから距離を取るように後ずさった。だが、すぐに屋上のフェンスに背中が当たり、角に追い詰められた。

 スザクは無造作にルルーシュの間合いに踏み込んだ。昔から、スザクはこの距離感をはかるのがうまかったと、ルルーシュは今更ながら思い出していた。
「スザク?」
 囁くように、名を呼んだ一瞬、スザクはその時初めてその瞳に色を掃いた。切なげなそれをルルーシュがそうと断じるより早くスザクは顔を伏せた。スザクの左手がルルーシュの胸に当てられる。そして。
「!スザ…っ?!」
「君を、」
 スザクの顔はルルーシュの首筋にあった。左手がルルーシュのカッターシャツの上を滑るように這い上り、首筋に到達して不意に力を込めた。
 同時に、スザクは顔を僅かに上げる。

「君を

 殺してやりたい…っ」

 好きすぎて。



 愛し過ぎた。



 君は、絶対に僕の所に立ち止まってはくれないのに。












 いつだってルルーシュの手はナナリーのもので、
 いつだってそのキスはナナリーに捧げられていて、

 好きだと気付いた時にはもう、ルルーシュの全部はナナリーのものだった。











 スザクは踵を返した。走って屋上を去る背中を呆然と見送って、ルルーシュはいつの間にか座り込んでいた事に気付いた。


 二度目のキスは、血の味がした。
















































 結局、ぼうっとしているといつの間にか周囲は暗くなっていた。ルルーシュは屋上を出て、緩慢な動作で鍵を閉めた。幸い職員室は出払っていて無人だったので、鍵をそっと、ホルダーに戻した。

 頭に霞みがかかったようだった。ルルーシュは、
「殺したい」

「好き」
が両立する事など、小説の中だけの事だと思っていた。否、現実にあるにしても、遠い世界の事だと思っていたのだ。

 ルルーシュは単純に驚いていた。
 殺意と好意、両極端に見える気持ちも、一人の人間に向かえば所謂「執着」と言い換えられる、とルルーシュの一部の働く脳は弾き出した。だが、ルルーシュには実際今までのスザクにそういった感情の気配を感じた事はなかった。
 ただひたすら、ふわふわと飛び回る風船の様に掴み所なく振る舞うスザクを、現実に繋ぎ留めなければ、とルルーシュは思っていたのだ。

 そんな事を思いながら、昇降口を出る。葉が繁る木の枝のせいで、等間隔に設置された街灯の光は遮られている。風が海に向かって流れ、葉擦れの音がそこここで鳴った。一人きりで聞くそれは、湿り気を帯びた肌を震わせるような不気味さを帯びていた。
 早く帰ろう―――ルルーシュはただ、そう思った。ナナリーに会いたかった。会いたいが、だが同時に、会いたくない様にも思った。
 心配をかけてしまうだろう。熱が篭ったぐらつく頭で考え、痛む眼で前方を見据えると、校門に寄り掛かる人影が目に入った。小柄なその人影は、俯いていた顔を上げルルーシュを見ると、白皙の幼顔に貼付けた無表情から一変し、途端に相好を崩した。
「兄さん!」
「ロロ?」
 ロロは駆け出し、ルルーシュに迫り抱きついた。
 最後に会った時には、小柄な体はルルーシュの肩辺りまでしかなかったが、離れていた三年ほどの間に伸びたのだろう、ルルーシュの顔半ばまで達したロロはしかしルルーシュの前ではその稚い風情を隠す事なく顕わにする。
 身長が伸びた分、大きくなった衝撃に何とか堪え、ルルーシュはロロの肩に手を置き、もう一度顔を見た。ルルーシュやナナリーに似た、日にやけない白い肌、ナナリーに良く似た優しい面差し、ミルクティー色の髪。
「ロロ?お前、クロヴィス兄さんについて海外に行ってたんじゃ」
「呼び戻されたんだ。シュナイゼルさ…兄さんに。でも、兄さんと出来るだけ長く居たかったから、すぐに戻って来たんだ」
 僕と入れ違いに兄さんが外国に行っちゃうなんて淋しいけど仕方ないから、…

 ルルーシュはぐるぐると回る視界で、ただ従弟の言葉を聞いていた。


 れるほど愛しても伝わらない

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 20080808




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