(2) あの後、嵐が来た。数年に一度の規模の嵐は、数日の休校という異例の事態を引き起こしたが、たいした被害を出す事なく収束した。これが、島で唯一の医者であるスザクの家になると事情は変わって来るのだろうが、少なくともランペルージ家には何の被害もなかった。 季節はもうじき初夏を迎える頃だと言うのに、じっとりと肌寒い日が続いている。窓の外は轟々と風が獣のように唸り暴れ狂っている。 ルルーシュは、居間で借りて来た本を読んでいた。この雨がやんで、学校に行けるようになったら返さなければならない。隣では、妹が数枚の折り紙を回りに散らして、鶴を折っていた。目が不自由な割に、その手つきには危なげがない。出来上がる鶴も立派なものだ。 もうすぐ三時だからと、咲世子は紅茶の準備に席を立った。いつもならルルーシュも手伝うが、本がラスト10ページであったことも手伝って、タイミングを逃してしまっていた。 「雨、やみませんね」 「でも、明日にはやむって、さっき天気予報でも言ってたろう?」 ルルーシュはナナリーを見た。 ナナリーはオレンジ色の鶴を折るのを止めてルルーシュの方へ顔を向けていた。 「お兄様、スザクさんと何かあったのですか」 不意打ちだった。 「どうしてそう思うんだい」 「お兄様、元気がないみたいですし。スザクさんも来て下さらないから、何かあったのかと…」 「スザクの家は医者だから、怪我人の対応で今は忙しいんじゃないかな」 「そう、ですね…」 おそらくこれから出るだろう怪我人への痛ましさに表情を曇らせて、ルルーシュの愛おしい妹は呟いた。窓を叩く雨粒の音に掻き消されそうなその呟きに、ルルーシュはふと、尋ねた。 「ナナリーは、スザクが好きかい?」 「はい。スザクさんだけじゃありませんよ?この島の人は皆いい人達ばかりで、大好きです」 ここでは、陰口を叩くような人間はいない。何でも口に出すし、開けっ広げな事が原因で喧嘩にもなるが、陰湿なそれには発展しない。ナナリーの障害についても、ごく自然に受け入れてくれている。 「お兄様はどうですか?」 ナナリーがルルーシュのいる方へ顔を向けて尋ねた。 「俺も好きだよ」 感謝している。母親が死んで、ぴりぴりと尖らせた神経を、島の風土は優しく慰撫し、宥めてくれた。燃え立つ復讐心も、数年が経ち、今はどこか遠いものになった。 「お好きなのはスザクさん?」 「は!?」 頓狂な声を出した兄にくすくすと楽しそうに妹は笑った。 「楽しそうですね、何をお話されていたんですか」 ティーセットをトレイの上に取り揃えた咲世子が戻って来て、ナナリーに笑い声の原因を尋ねた。 「お兄様が好きなのはスザクさん?て、聞いてみたんですけど」 「まぁ、それで、ルルーシュ様、どうお答えしたんですか」 「さ、咲世子さん、ポットを忘れてるよ、俺が取りに行くから」 年長者の視線で微笑ましいものを見るような目で咲世子に見られ、堪らずルルーシュは部屋を出た。 人目がなくなったところで息を吐く。 おんなはわからないな… 嵐を齎した雨雲が過ぎ、学校が再開した。しかし夏休み直前と言う時期、真夏日並の気温と嵐の後という要素が揃い、燦々と輝く太陽は纏わり付くような湿気を地上に立ち上らせた。 ルルーシュは図書館の外を見た。陸上部は、まだ泥沼状態のグラウンドのせいで活動していない。校内で自主トレをするスザクと擦れ違ったのはつい先ほどだった。階段を、友人達とぎゃあぎゃあと叫びながら駆け上がるのとすれ違ったのだが、いつもなら挨拶の一つも交わすところを、スザクが自然に目を逸らしたので声を上げそびれた。 …気に入らない。今朝だって、朝練などない筈だ。それにも関わらずスザクは先に学校へ行ってしまったと言われるし、朝が一緒ではないのなら帰りの打ち合わせも出来ないから共に帰る事もない。 新たな本を手に取りながら、自然と自分がスザクの事を考えているのに気付き、ルルーシュは苦い顔をした。 本を手に取り、カウンターに向かう。図書委員も兼ねる生徒会副会長は、カウンターの奥の椅子に陣取った。 すると、 「どうしたの?ため息なんか吐いて」 共に当番に当たっていて、先に来ていたシャーリーに声をかけられた。幸せが逃げちゃうよー、と言われ、苦笑する。 「…スザク君と、何かあった?」 「…何故そう思う?」 「んー、何となく。スザク君もなんか元気ないみたいだし、今朝一緒に来なかったでしょ?」 「何で知ってるんだ」 「有名だよ」 シャーリーは屈託なく笑った。 「なぁに、おしゃべり?」 司書教諭のセシルが扉を開き、私語を咎められた訳ではないのだが、二人は身を竦めた。が、人気もない室内でセシルは話を続ける。 「スザク君とルルーシュ君の仲たがいの話?」 「先生まで知ってるんですか!?」 ルルーシュは仰天して思わず語気を荒くする。 「有名よ?夫婦漫才みたいな話とか。音速で」 「そうそう、音速で」 ですよね、とシャーリーはセシルと目を合わせ頷く。ルルーシュは突っ伏したくなった。 「…因みに、どんな噂が?」 「スザク君が、ルルーシュに三行半をたたき付けたって」 「はぁ!?」 先ほどの比にならないくらい驚いた。それではまるで自分に非があるようではないか! 「誤解だ!」 「そうなの?」 不思議そうな顔でシャーリーがルルーシュを見た。裏のないその顔に、ルルーシュは内心冷や汗をかいていた。 なら何なのだとその目が、瞳が問いかけてくる。 答えることが出来ないまま、膠着状態が続く事数秒。 天の助けか否か、校内放送が掛かった。 「三年D組、ルルーシュ・ランペルージ君、お電話が入っております、至急事務室まで―――」 家族と言っても、ルルーシュにある心当たりはナナリー位のものだ。ルルーシュは、身を強張らせると、立ち上がった。 「すみません、外します」 「ええ」 ルルーシュがたった一人の妹を何より大切にしている事を知っていた二人は頷いた。何より、ルルーシュの顔は今や蒼白だ。 「気をつけてね」 事務室は二階にある。図書室は一階にあるので、中央階段を駆け上がる。たったこれだけの距離だというのに、電話の内容に胸が騒ぎ、いつもより数倍胸が痛い。 事務室前で息を調え、扉を開けた。 「三年D組のランペルージです、」 そこの電話、と事務員が保留音を流す電話を示した。 ルルーシュは手の震えを、一度強く握ることで止め、白い受話器を取った。 「お待たせしました、ランペルージです―――」 受話器の向こうから聞こえたのは、悍ましくも懐かしい声だった。 「ルルーシュ」 失礼しました、と好奇の混じった事務員の視線を交わして扉を閉めると、珍しく息を切らしたスザクが居た。 「練習中じゃないのか」 「今日は自主トレだから。それより今の電話って」 「ナナリーじゃない」 先に答えを言ってやると、スザクは安心した様に息を吐いた。 「なぁスザク、今日の帰りは一緒に帰れるか?」 「え、今日?」 余りにも。 いつも通りの顔をスザクがしているからか、先程ルルーシュを無視していったスザクや、今朝ルルーシュを待たずに一人で学校に行ったスザクは自分の勘違いだったのではないかと言う気が、ルルーシュにはしていた。 あの、雨の中のキスと、さよならも。 「枢木先輩!こんなところにいたんですか」 その時、廊下の突き当たりから今降りて来たのだろう小柄な男子生徒がスザクの名を呼んだ。 「ごめんルルーシュ、今日はちょっと」 「そうか」 何故、とは聞かなかった。 客観的に見れば、スザクはかわいい部類に入る。ルルーシュにしてみれば訳がわからない思考の飛び方も、他人が言い方を変えれば天然の一言で済む。 健康的に日に焼けた肌、バランスの良い体つき。大きな垂れ目に物怖じしない性格。 だから、スザクに彼氏が出来るなんて事は、ルルーシュの想像の範疇だった。 まぁ、こんな幼い風情の下級生だとは思わなかったが。ルルーシュは駆けてくる下級生を見た。 利発そうな顔立ち、運動部らしからぬ白い肌をしている。少しナナリーに似ているような気がした。その彼は、スザクの影にルルーシュの姿を認めて、わずかに表情を強張らせたが、すぐに笑みを張り付けてやってきた。 「もう上がって良いそうです。」 「そうなの?」 「枢木先輩は、先生が呼んでましたから、」 「分かった、ありがとう」 「待ってますね」 頬を染めて微笑む彼に、スザクはにこ、と微笑んで、放送室に向かう背中を見送った。 「―――先生からの呼び出し?」 「うん。スポーツ推薦、受けられるかも知れないんだ僕」 「そうなのか」 ルルーシュは何となく息を吐いた。 「勉強して高校行くより楽そうじゃない?」 スザクがくすくすと笑った。 「ばか、いくらスポーツ推薦でも試験はあるんだからな」 「それもそうだけど。―――じゃあ」 「あぁ、」 スザクが自然に背中を向けた。ルルーシュも自然に返した。踵を返す。 ―――いつもなら、スザクが部活を終えるまで待つのがルルーシュで この挨拶も顔が見えないくらいの暗闇で交わされるのが常だった。 ルルーシュは図書室へ戻った。出しっぱなしにしていた本を仕舞わなければならなかった。残りの時間に当番も必要だし、荷物も取りに行かなければ。 そう思ったのだが、図書室のドアには既に閉館のプレートが掲げられていた。その割に扉に鍵は掛かっておらず、中に人気はなかった。鍵はない。セシルが鍵を持っているのだろうか、ルルーシュは鞄を置いていたカウンター奥の司書室に入った。 閲覧室に据えられているのと同じ机と椅子の、机の上にルルーシュの読み掛けの本と鞄が置いてあった。 先程まで着いていた空調が消えたせいで、部屋の窓は閉められて音はなく、じわじわと空気が温かみを取り戻していく様だった。しん、と耳鳴りのするような静寂に、ルルーシュは気が抜けて椅子に座った。耳に、久方振りの長兄の言葉が蘇る。 そろそろ戻ってくる気はないかな ナナリーが残りたいと言うのなら、家から人を寄越すよ ルルーシュは医者になるんだろう? ナナリーの為にも 父上も君が一人前になる日を楽しみにしておられるよ いっそ外国の学校へ行ってみたらどうかな 少し考えさせて下さい、と辛うじて言葉にするのが精一杯だった。 そう長い間でもなかったが、ルルーシュには何時間にも感じられた。次に何を言われるのか、冷や冷やしていた事もある。 ルルーシュは、ナナリーの事を考えていた。人の身勝手な怨恨に傷つけられた、たった一人の妹。 今、家に戻ることが得策とは、ルルーシュには思えなかった。母を亡くした直後、あの家で、人の手を患わせまいと気を張り、小さなからだがベッドの上以外に居場所をなくしていく様は、以前の活発な様子も相俟って、ひどく痛々しかった。 ルルーシュは彼女を守らなければならなかった。自分に課された使命だと思っていた。今はどうか。 「ナナリー…」 ナナリーは、もう一人でも、平気なのかもしれない、と、先日来ルルーシュは考えていた。ここには、スザクがいる。身の回りのことを見てくれる咲世子もいる。親切にしてくれる島の人がいる…勿論、自分が不必要だとは思わない。だが、居なくても大丈夫なのかもしれない、と。 そう考えると、途端に気が抜けた。 (何だ、俺は…) ―――、僕は満たされる ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 20080731 ブラウザバックでお戻りください |