08.私だけの呼び名 「今日はもう来ない!」 宣言して、スライド式の扉を開き、病室を出る。スライド式の扉は音を立てないように、挟まれても衝撃がないようにと中の病人を慮ってゆっくりと閉まる。ルルーシュの苛立ちを表すには適さないツールだった。 閉まる直前、ちらりと見たスザクはうずくまっていた。 …心配なんかしないぞ。あれは自業自得だ。 言い聞かせて、なかなか動こうとしない脚を叱咤する。 普段は穿かない白いスカートがひらひらと視界を過ぎった。 事件の前、美奈子が屋敷を去る前に見繕ってくれたスカートだった。 上に着ているキャミソールも、ボレロも、全体にパステルカラーで纏められたそれを、ルルーシュは似合わないからと箪笥の中に仕舞いっぱなしにしていた。あの家に、ふわふわひらひらしたスカート、というミスマッチさが気になった事もある。 本国に居た時には、母が似合うと褒めてくれたからスカートもはいた。 パンツスタイルが主になったのは、母の喪に服す為に黒を着始めたからだった。日本に来てからも、装いから華と言う物の一切を排除した生活を送っていた。婚約者という立場上、そして秘密裏の来日という都合上、無闇に目立ってはならないと、そう思っていたからだ。 だから美奈子の用意してくれたこの服も、きゅるふわ具合がどうにも自分に抑制をかけていたのだが、それを着ようという気になったのは。 (…馬鹿が) 少し乙女思考に走りすぎた。ルルーシュはそんな自分にNGを出して、さっさと帰ろう、と思いスザクの病室の扉から背を離した。 だが、エレベーターホールに向かって歩き出そうとして、ぎくりと足を止める。 この三日間、姿を表さず、連絡も寄越さなかった、スザクの父。 中華連邦とブリタニア、対立する両陣営の間をサクラダイトと言う餌でかわし、近年では異例の三期目首相職が確実と言われる、日本国首相。 東洋の眠れる獅子、皇の系譜に連なる日本の守護者、 枢木ゲンブ。 ルルーシュを日本に留め置いた、日本国政治の首魁が、佇んでいた。 「今回の件、君を危険な目に遭わせてしまって申し訳ないと思っている」 未来の伴侶となる男に、話がある、と言われ、別宅まで帰って来た後、初めて入室する一画、ゲンブの書斎に招かれた。 部屋は、ここだけは洋室であるようで、暗い飴色の壁、どっしりとした同色の巨大な本棚に堅い装丁の古書が納められている。幼い頃スザクが此処に訪れた時に母親と、あるいは美奈子と読んだのかも知れない、カラフルな絵本が並んだ一番下の段が異彩を放っているが、ほほえましくもあった。 だが、それを正直に話して微笑む事が出来るほど、ルルーシュはゲンブとスザクの事を知らなかった。 ルルーシュは、部屋の色調に合わせたような、暗緑色の布張りが為された猫脚の二人掛けソファに腰掛けて、ゲンブはその斜め前に座った。光はゲンブの後ろから放たれて、ルルーシュからゲンブの表情を見ることは叶わない。 ルルーシュは、先の言葉に、いえ、と否定を返す。 「私の方こそ、ご子息に怪我をさせてしまったこと、申し訳なく思っています」 本心を、混ぜた言葉はすんなりと口から出た。 「あれが君を守って勝手に傷を負ったのだ。君のせいではない。…だが実の父親として、数日間、あれの世話をさせる事になってしまったことは、済まなく思っているのだ」 「私こそ、まだ正式なははお…家族になった訳でもないのに、でしゃばってしまいました」 ぎこちない沈黙が満ちる。冷たいものではない。だが、どちらも何を話して良いのか分からない、という逡巡の間だ。 ゲンブの背後にある窓から、僅かに外の明かりが入ってくる。空調は寒いほどの効きで、薄手のカーディガン一枚の下は素肌のルルーシュは、己の上腕を逆の手で触れ、その余りの冷たさに驚いた。 「…君は、あれの事をどう思っているのかね」 「スザク、の事ですか。」 「君は、私の婚約者だ。どんなに滑稽であろうとも、ブリタニアは君を人質として差し出した。我が国のサクラダイト欲しさに、だ。」 「…はい」 「であればこそ、君は此処にとどまり、あれは怪我を負った…」 『だが、あれの君に対する態度は母に対するものではあるまい。』 ゲンブの放つ言葉は静かではあったが、ルルーシュの頬を青ざめさせるに十分な威力を持っていた。 ルルーシュは、国から、父から、命じられていた。ブリタニアと日本の友好の徒となれ。叶わずば死を選べ。 ルルーシュの存在が国交に何ら影響を及ぼさなくなった時には、自ら命を絶つのだ。 ―――戦端を開くきっかけになれ、と。 ルルーシュはそれすら失敗したのかもしれないと、美奈子が去った後、考えなかったと言えば嘘になる。 しかし、日本は未だブリタニアに対して何某かのアクションを起こすことなくサクラダイトを輸出し、敵対するような行動を起こしてはいない。 であればこそ、ルルーシュは今ははまだその時でないと考えたのだ。 だが事態は一変する兆しを見せた。 今ゲンブに責められ、自身が不和の種になるのなら、ここで自決するべきか。 じっとりと冷たい汗をかいた手で、懐に忍ばせたものを指先で探る。 ゲンブは厳しい目でルルーシュを見つめていたが、その様子を見て僅かに張り詰めた空気を緩めた。 「やめなさい。私は君を責めようと言うんじゃない」 「―――え?」 「君はあれを―――スザクを好いてくれているのか」 「…すみません」 「いや、私と君が結婚するよりは有り得る話だ。君の世話を、あれに任せきりにしてしまった私の責任でもある。…その、君は何故あれを?」 ルルーシュは心臓が軋む音を聞いた気がした。実際には、鼓動は恐ろしい速さで脈打ち、頭の中が真っ白になる。 「金魚が」 「金魚?…あぁ、玄関にあった金魚鉢のあれかね?」 真っ白になった頭の中から、自然と浮かび上がってきたのは赤い光だった。 「私が諦めてしまった命を、彼は軽々と救ってくれた。だから、です」 消え行く命を、ルルーシュはただ見守ることしか出来なかった。けれど、スザクはそれを、惑うことも、迷うこともなくすくいあげてくれた。 あの瞬間、水のない場所で、渇いて死に行く金魚は、母で妹でルルーシュだった。 スザクが欲しい、と思ったのは、あの瞬間だったと思う。 「そうか。」 ルルーシュの身に起きた惨事を知っていたゲンブはそれだけの言葉で察したのだろう、或いはスザクの事を話すルルーシュの様子を見てとったのか。 いずれにせよ、もっと激しく糾弾されると思っていたルルーシュは身を固くして備えたが、そこにはルルーシュが想像したような痛みはなかった。 「怒らないのですか?」 私はゲンブ殿の婚約者ですのに。 ルルーシュが逆に尋ねると、ゲンブは苦笑した。 「君と私では年齢に開きがありすぎる。政治的意味で私との婚約を認めたが、これが公になった時にはスザクとの婚約にした方が国民感情には沿うだろうと思っているよ。誰だって父と娘の年の婚約よりは若者のロマンスに好意を持つ」 「……」 確かに、ゲンブとの婚約結婚では、ルルーシュの存在意義が隠しようもなく浮き彫りになってしまう事は想像に難くない。 ブリタニアからのご機嫌取り。 それを敢えて諾と受けた軟弱さへの不平不満は、それを断たなかった枢木ゲンブと、枢木政権に及ぶだろう。 そうなれば。 あれ? ならば美奈子がルルーシュを狙うなどという手間は必要なかったのでは? 枢木政権がそのような謗りを受けて倒れれば、現行の政治を一切合切国民は否定するだろう。 美奈子を使う人物にとってはしかし、ゲンブを失脚させれば良いだけだ。 であればルルーシュについてそれらしき噂を流すだけで済む。そうならないためにルルーシュの存在は表向き秘されていたのだから。 「君はここ数日、あれの事でそれどころではなかっただろうが、」 君の存在が公になった。 ゲンブの言葉にルルーシュはぞっとなった。 だが、次にルルーシュに告げられた言葉は、ルルーシュには思わぬものだった。 「あれを、君の騎士にしてやってくれないだろうか」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 20070812 ブラウザバックでお戻りください |