卵の割れる、音






02.供じゃない



「スザク」
 枢木家に扉はない。皆、襖か障子かガラスの引き戸だ。もちろんスザクの部屋も例外ではない。そして、山間にあるこの別宅は夏でも夕方になれば十分に涼しい風が吹く。まだ居を移したばかりで私物の少ないスザクの部屋も、涼しい風を呼び込もうと大きく開け放たれていた。
 ルルーシュは開けっ広げな遠慮のなさにどうして良いかわからず、障子で隠れる場所に立った。同世代の男の、自室なんて見るものじゃない、という抑制の働いた結果だが、同時にどうしたら良いのか分からない居たたまれなさに基づく対応でもあった。
 外は夕闇が少しずつ足音を聞かせ始めた午後6時。

「あ、ゴメン。思ったより早かったんだね」
 スザクは読んでいた漫画を伏せて机の上に置き、懐を探って、部屋から出た所に佇むルルーシュと対面した。
「…」
「うん、似合ってるよ。ルルーシュは色が白いから、濃い色の生地が映えるよね」
 スザクの母のものだったと言う浴衣は黒味掛かった紺地で、所々に吹き流しのような桃色の桜が散っている。帯は臙脂で、美奈子の手によるものだろう、結び直すのも難しそうな、文庫結びの変形型だ。浴衣が初めてのルルーシュには名前すらわからなかった。
 ルルーシュの戸惑いを宥めるようにスザクは笑い、用意は良いの?と尋ね、玄関に促した。
「これは?」
「下駄。」
 普段使いの靴は片付けられ、置いてあったのは漆で塗られた縮緬鼻緒のかわいらしい下駄と、白木の雪駄だった。スザクは自分が先に履いてみせて、ルルーシュにも同じように履かせた。
「行こう」
 スザクは右手を差し出す。ルルーシュは一瞬戸惑って左手を延ばした。

 



 下駄は、歩きにくかった。履き慣れていないせいもあるのだろうが、鼻緒が足に食い込んで痛い。二枚しかない歯は、砂利道を歩くのには不向きだ、と思う。
 しかし、枢木神社の参道の上、石畳を歩くと、からんころんと音がするのは面白い。
 ルルーシュは始めはよたよたしながらスザクの引く手に縋って歩いていたが、参道に入ってからはそれなりに歩けるようになり、ほっとして、もう大丈夫だから、と手を離そうとした。けれど「逸れたらたいへんだから」とスザクは取り合わなかった。だから左手はスザクの右手に繋がれたままだ。
 暑い。外気は昼間に比べ下がったが、人込みと、緊張とで体が熱を発しているよう。
 常より僅かに逸る鼓動と汗ばむ掌が気になって、半歩前を歩むスザクの顔を見たがスザクは飄々と歩を進めていく。参道を歩く人々は、その両側に並ぶ出店を見るのに忙しく、秩序なく歩き回るものだからルルーシュは時々反対向きに歩く人にぶつかられそうになった。だがその度に巧に腕を引いてくれるスザクのおかげで難を逃れている事は確かなので強硬に放せと言うこともできない。
 夜間、独特の赤い提灯に照らし出される空間は行き交う人の顔を闇に紛れさせる。手を繋いでいないとはぐれてしまうとスザクは言ったが、次第に昼とは違う雰囲気に呑まれてしまったルルーシュは、繋いだ左手に力を込めた。スザクはそれに気付いたのか僅かに振り返り、影に入った事で深みを増した緑翠を少しだけ細めクスリと微笑んだ。
 ルルーシュはその顔に何だかいたたまれない心地がして顔を反らした。そして、反らした先に、子供達が群がる一画を発見する。
 集まる子供達の年齢層はルルーシュやスザクよりも僅かに下で、その親や、お目付け役なのだろうルルーシュ達よりも年上の青年達が子供達を見守っている。
 スザクはルルーシュの視線が留まった先を見て、行ってみようか?とルルーシュ
の手を引いた。

 

 10分後、スザクに繋がれていないルルーシュの右手には、朱い金魚が二匹と黒い出目金が一匹入ったビニール袋が下げられていた。ルルーシュの持っていた巾着はスザクが持ち、参道をそぞろ歩きする。

 ルルーシュの右手に増えた金魚は、スザクが取ったものだ。子供達の垣ごしにルルーシュが見たのは、水色のケースに薄く張られた水と、その中をさんざめきながら泳ぐ赤と黒の魚達だった。子供達は店番の男に、丸いプラスチックの輪に紙を貼付けた道具を貰い、手元の器に魚を掬い取ろうとしていた。紙で魚を掬うその行動は、ルルーシュにとって滑稽なものにしか見えなかったが、魚を掬えなかった子供が男に受け取ったビニール袋の中の生き物が、朱い光に照らされてキラキラと輝く姿はとても優美で、つい目で追ってしまった。
 そんなルルーシュを横目で見ていたスザクは、店の男に二人分の金魚掬いを頼み、そのうち一方をルルーシュに渡した。
「はい」
「あ、ありがとう」
 ルルーシュは戸惑いながら受け取り、ちょうど空いた隙間に体を滑り込ませた。
 丁寧に裾を捌いてしゃがみ、ケースを囲む他の子供達の様子を見ながら見よう見真似で椀を引き寄せ、金魚掬いを水に付ける。ケースの端に一匹の朱い金魚を追い詰めた。が、掬い上げようと右手を上げた途端、薄紙が破れてしまった。ルルーシュは破れてしまったそれを男に返すと立ち上がってスザクを振り返った。
「もう一回やる?」
 スザクが右手に持った破けていないそれを示したが、ルルーシュはスザクがやってくれ、と場所を交替した。
 スザクはルルーシュが居た場所に滑り込むと、瞬く間に朱い金魚を一匹掬い取る。ルルーシュは目を見張ってそれを眺めていた。続いてスザクは黒い出目金を掬い上げたが、そこで紙は破れてしまった。
 店の男は、スザクの掬い上げた二匹をビニール袋に入れた後、その後ろに佇むルルーシュを見て、もう一匹朱い金魚を足してくれた。ルルーシュに対するサービスか、単なる残念賞か、判別は難しい態度であったが、スザクがありがとうございます、と言うと、男は僅かに微笑んだ。


 慣れない空気に緊張したのか、それとも見知らぬ食べ物ばかりで戸惑っているのか(ブリタニアにソースなどあろう筈もない)余り食欲のなかったルルーシュはその後、かき氷のいちご味を買い、スザクはミネラルウォーターを買って、枢木神社の東端へ歩いていった。枢木神社は北側の境内から南北に走る参道と長い階段で構成されている。参道の両脇は夜店で埋め尽くされ、朱い光で満たされていたが、南側の階段脇から延びる東西の舗装されていない脇道に人影はなかった。スザクは右手にペットボトル、左手にルルーシュの巾着を持ち、ルルーシュの半歩前を歩いて、時々ルルーシュの方を振り返る。
 ルルーシュは、闇に溶け込みそうになるスザクの背中を見ながら一生懸命歩いたが、支えてくれる手もなかった為に先ほどよりも一層用心深く歩いた。
 だが、事故は、思わぬ理由で起こるものだ。



「あ…!」
思わず声が出た。


 右足が、心許ない。足裏に、空気が触れたからだ。
 漆塗りの木の上を足が滑ってつんのめる。思わず右手と左手を前に突き出して顔を庇おうとし、けれど右手にある小さな命を思い出して、どうしたら良いかわからなくなった。
 そのままバランスを崩す。近づいて来た地面の土の香が鼻につき、思わず目を閉じた。

 ぱしゃん、という音を耳にしたが、体に痛みは何処にもなく。
 目前に揺れる茶色のふわふわと、布地一枚隔てた身体の熱と、微かな石鹸の香と。

「―――大丈夫だった?」

 斜め後ろから射す朱い光に反射して、ゆらゆらと燻る凪いだ湖面の緑翠が真摯に据えられて、ルルーシュの頭は急に回り出した。

 何で転んだんだろうスザクはいつの間に戻って来たんだろう俺が怪我をしてないということはスザクが庇ってくれたからだろうならスザクは怪我していないのか聞かなくては。

 しかし至近から合わせられる翡翠はそんなルルーシュの混乱を全て読み取っているかのようで、取り敢えず問い掛けられた返事をしようと頷こうとして、空の右手に気付いた。

「あぁ!」
 スザクの肩ごしに、転んだ勢いでだろう、少し離れた場所に落ちたビニール袋を見つけた。黒く地面の色を変色させて、中の水が漏れ出していた。

 スザクが立たせるとルルーシュは右足が裸足なのも構わず数歩の距離をまろび寄った。
 見れば、中の水は殆ど抜け、小さな朱い身体は時折ぺちりと体を震わせている。
 黒い金魚は、水中を泳いでいた時の優美さは欠片もなくビニールの中でのたうち回っていた。
 散水ホースや、水道、池か、せめて水溜まりはないかと手放しで泣きたい気持ちを抑えて見回すが、夕立もなかった地面は渇いていた。参道まで戻るには遠く、近くには水道もなかった。

 ごめん、なさい
 目の前で震える小さな体に謝りたい気持ちで一杯になって、どうしたら良いかわからなかった。

 間抜けな主人に持たれていたばかりに、本来なら水中で優美な姿を見せる生き物が、地面の上で死を待つばかりだ。苦しそうで、何とかしてやりたいのにそれも出来ず、かといってとどめを刺してやることも出来ない、生殺しだ。

 こんなに無力な主人で本当にごめんなさい。

 取ってくれたスザクにも、おまけをしてくれた夜店の主人にも申し訳なくて、ルルーシュは消え入りたい心地に駆られながら、涙が出るのを堪えた。 断末魔を放つ金魚から目を離せず、硬直した視線に、けれど突然入り込む、人の手と白い袖。



 手は、中でびちびちと跳ねる金魚の袋を開け、傷付けない様金魚を指の腹で巧く掬うと、左手に持ったボトルの口に滑り込ませた。



 ぽちゃん、と水音を三つさせて、失われるはずだった小さな命をすくった手は、何気ない動きでキャップをしめ、ボトルをルルーシュに渡した。



「大丈夫?」



 再度かけられた言葉に、呆然と顔を上げスザクの顔を見た。


 こんなに簡単に命を救う事が出来る人。


 ルルーシュの目の縁に溜まった涙が、一筋零れ落ちたのは次の瞬間だった。

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20070809




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