愛と誠 /前 雪が降っていた。 湿り気の多いぼた雪は、地面に触れると途端に水溜まりになる。その泥水を蹴り立て、陸上競技場を、終わらないのでは、と思うほど長い、暗緑色の行進が進んで行く。一人一人のざ、ざ、という足音より、大勢の人間が歩く音は地鳴りに近い。 ルルーシュは傘をさしていた。黒い蝙蝠傘は積雪で重量を増していた。外套が冷たく湿り、元来大層血の巡りの悪い手足は長靴手袋に覆われていて猶かじかみ既に感覚はなかった。しかし眼下を進む集団の中に愛する者がいる、その一念でルルーシュは目を凝らし続けたが、式典の最後まで、遂に見つけることは出来なかった。 ルルーシュは駆けた。屋敷内の廊下には赤い絨毯が敷かれているから、たいした音は出ない。途中、驚いた顔をする家人と擦れ違ったが、構わなかった。手に持った紙切れ一枚、それだけが今のルルーシュの関心事だった。 階段を駆け上がった。 一段抜かしで上り、後少しだと止まらずに駆ける。ルルーシュの並びにあるスザクの部屋の扉を開け放ち、「スザク!」と名を呼ばわる。 スザクは、窓際に据えられた机に向かい、何事かを書き付けていた様だったがルルーシュが呼べば 何?とルルーシュとは対称的に平然とした様子で振り返った。 「何ってお前、これはなんだ!!」 「あぁ、やっと来たんだ」 届けてくれてありがとう、ルルーシュ。スザクは何でもない顔をして平生の優しい笑みを浮かべながら椅子を立ち、ルルーシュの手からその赤い紙を受け取った。 「ありがとう、じゃない!何でお前にそんなものが届くんだ!」 「自分から志願したんだよ」 スザクは赤紙を見て確認しながら言った。 「嘘だ!父上か?父上に命じられたのか、そうなんだな!?」 ルルーシュはスザクの言葉が信じられなかった。ルルーシュはこの国の人間ではない。一家の主である父親は、戦争が始まる前にこの国に招かれ、国民感情が外人を拒む今も政府に保護される建築家だ。この国の国民ではない以上、徴兵とは無関係な筈で、それは養子であり後継となるスザクも同じ筈。 ルルーシュは、長くは生きられないと幼い頃に診断された身だ。父はどこからかスザクを拾い、後継に任じた。ルルーシュには兄弟はなく、母親もルルーシュを生んですぐに死んでいる。黒髪はこの国出身の母の遺伝だが、変わった色の双眸はどこへ行っても奇異に映るようで、ルルーシュに友達は居なかった。二つ年上のスザクだけが、ルルーシュを認め、受け入れてくれたのだ。 「義父上は関係ないよ。自分から言い出したんだ。義父上は良い顔をしなかったけれどね。これが来たって事は、認めてくれたんだな…」 スザクは愛おしいものを見る目で、赤い紙の字をなぞる。 「何で…」 そんな顔をする?お前を死地に赴かせようとする死に神の手紙を、お前はどうして! 声にならない叫びは涙となって現れた。ルルーシュは顔を覆った。スザクは、少し下にあるルルーシュの肩に手を置いた。 「義父上にお話したんだ。僕が帰って来たら、ルルーシュと、ずっと一緒に居させて下さいって」 やっぱり、何時までも黙っているわけにはいかないから。 スザクは少しだけ苦い声で囁くように言った。拾われた恩のあるスザクが、家主の子に懸想し、あまつさえ恋仲になるなど、不忠窮まりない、とスザクは考えたのだ。 「スザクは家族だ。そんな事父上に言わなくても、俺達はずっと一緒に居られるじゃないか」 「君と居たいから、君を守るために僕は行くんだ」 「そんなこと、言われても少しも嬉しくない!」 顔を覆う手を、スザクは優しく剥がし取った。ルルーシュのまだ稚さの残る顔は、赤く染まり、涙で汚れていた。スザクは手巾でルルーシュの顔を拭い、横髪に手を入れて顔を上げさせた。 ルルーシュにだって分かっている。正攻法に拘泥するスザクが、何時までも今の関係に甘んじていられる訳がない、と。だから、 「納得して」 有無を言わせぬ強い言葉に、渋々と頷いた。―――その実は、スザクに悟られないよう決意を固めながら。 行進が終わり、耳が痛くなるほどの騒音を聞き流し、ルルーシュは帰路に着く前に、一人の男と会っていた。 だが、その事実は当人達以外、誰も知りはしなかった。 霙に長いこと打たれていたせいだろうか、ルルーシュはその夜から熱を出した。 ふ らふらとしながら、それでも自力で帰って来たルルーシュに、幼いころに比べれば大分丈夫になったとは言え、一人で外出するなんて、と父から咎められたが、愛する兄の出陣式に出て何が悪い、とルルーシュは苦しい息の元、涙を零して言い放ち、父を絶句させた。 そして翌々日、雨雪が止んだ曇天の元、スザクは家を後にした。ルルーシュは、病床から、それを見送った。ルルーシュは動く方の手でスザクの顔を撫で、体を起こして口付けを求めた。 「行ってくるよ、ルルーシュ」 「行って、こい。…絶対に、戻ってこいよ」 「うん」 雪が消え、梅の香も終わり、酒盃に舞い映る薄紅がいつしか全ての花びらを落とした。新緑の葉を太陽が透かす初夏がやってくる頃、ルルーシュも屋敷から一時離れ、首都から近い山間部に避難したが、そう長い事ではなかった。 ―――放送宣言が、終戦を告げたからである。 戦地に送られた兵士が、少しずつ街に帰還を果たす。喜悲こもごも、無事な姿を見せる者に泣く者、帰らぬ者の遺品を受け取り泣く者、駅前はそんな人々でごった返し、街中も混沌としている。それでも、もう警報に怯えなくても良いのだと言う、おっかなびっくりの賑やかしさは、次第に何か、歯止めを失う直前の饗宴の模様を呈し始めていた。 明日だ。 明日、スザクが帰ってくる。 深夜、ルルーシュはベッドで寝返りをうった。数日前、スザク帰還の報を聞き思わずその場でへたりこんでしまったルルーシュだ。嬉しい。ルルーシュにとっては、正しく背水の陣とも言える賭であったが、こうしてスザクが帰って来てくれるのだから。 (感謝しなければ) 今はこの世界に生きている全ての人に、御礼を言って回りたい気分だ。浮足立っているのがわかる。そわそわして、今夜は眠れそうになかった。それに、酷く蒸し暑い。そういえば、今は、夏なのだ。 スザクがいなくなってから、時間の流れに鈍感になっていた。毎日毎日新聞のチェックだけは欠かさずにいたが、窓の外を落ち着いた気分で見ることができたのは実に半年ぶりだった。この国の夏は酷く蒸す。今更それを思い出し、ルルーシュはベッドから降りた。素足のまま床を歩き、窓を開け放す。 遠くから、まだ喧騒が聞こえた。きゃあ、と楽しげな声がする。そういえば、二つ先の通りに住んでいた花火師の次男も一昨日帰って来た筈だ。若い声は、まだ10才に満たない一番下の妹の声だろう。ほほえましく声を背に受けながら、ルルーシュは再びベッドに戻り、沸き上がる興奮を押さえながら瞼を閉ざした。 翌日の事だ。 駅舎の中、ホームから改札を抜け、濃緑の軍服を纏った男達がぞろぞろと出て来た。そこここで泣きながら、あるいは笑い声が沸き上がる。改札の間から、鳶色の頭が覗き見えて、ルルーシュも歩き出した。 スザクは俯きながら、薄く汚れた服を纏い、改札を出た所で恐る恐る、周囲を見回す。やがて近付くルルーシュが目に入ると、スザクは一瞬顔を歪めた。ルルーシュは構わずスザクの前に立つ。 「おかえり、スザク。…無事でよかった」 「…あ、うん…。ただいま、ルルーシュ。君こそ、元気だった?」 「あぁ」 不自然に途切れた会話に、しかしルルーシュはそれ程不思議に思うことはなかった。戦地から引き上げて来た人達は様々だったが、つい先日まで死と隣り合わせの生活をしていたのだ、やはり元のままのスザクでは居られなかったのだろう、と思った。 「父上も今夜は戻るそうだ。」 帰ろう、とルルーシュはスザクの汚れた掌を取った。 スザクは静かに頷いて歩き出した。 数日が経った。スザクは帰って来た当日こそ笑顔を見せたものの、それ以来次第に塞ぎがちになり、今では日がな一日、殆ど部屋に篭りきり、ルルーシュとも養父とも進んで顔を合わせようとしなかった。父も、今はそっとしておいてやれ、と言ったが、ルルーシュは気になって仕方がなかった。 スザクは怪我をして帰って来た訳ではないのだ。看病の名目も使えない。 元々スザクは大学へ通っており、対してルルーシュは家に家庭教師を呼び勉強をしていた。 であるので、もしや復学の為部屋に篭って勉強でもしているのかと思いきや、そうではない様なのだ。 ある夕方、ルルーシュは意を決してスザクの部屋の扉を開ける。 スザクは、ベッドの下に片膝を抱えて座り込んでいた。 「スザク?どうしたんだ?食事も少ないし、皆が心配している」 「ルルーシュ」 「何だ?」 掠れた声を発したスザクに、ルルーシュが近付いた。スザクはルルーシュの足元に視線をさ迷わせながら、搾り出す様に言った。 「少し、家を空けたいんだ」 「え?」 今まで篭りきりだったスザクの言葉とは思えず、ルルーシュは聞き返した。 次に、スザクが握り締める紙を見た。くしゃ、としわの寄った手紙は一体誰からのものだと言うのか。 「―――スザクが行きたいなら。ただし、俺も連れていけ」 騒ぐ胸を押さえ付けながらの言葉に、しかしスザクは緩やかに首を振った。 「君は、連れていけないよ」 「どうして」 189、とスザクが呟いた。 「189?」 「僕の代わりに死んだ仲間の数だ」 ルルーシュ、 「君は、君達父子は、自分のした事がどんな事なのかわかっているのかい?」 ルルーシュはぎくりと強張った。いつの間にか顔を上げたスザクはその様子を暗闇に沈み込む暗緑色の瞳で見据えていた。 「それ、は…」 「いくら払ったのか知らないけれど、人の命はお金じゃ代えられないんだよ、ルルーシュ」 言葉を詰まらせたルルーシュにスザクは畳み掛けるように言い放った。だが、ルルーシュはスザクの叱責に消沈するどころか安堵の様子を見せた。スザクはそれを見て、頭に血が上ったようだった。 「189人だ!本当なら僕が行くはずの戦場に行って、数人しか帰ってこなかった!後方待機の部隊を点々として、前線に送られた時、僕の機体はいつも整備不良、搭乗禁止令!同じ隊の仲間は、皆死んでいったのに、僕だけが…」 「スザク…」 「知ってた、ルルーシュ?僕、頭の出来は人並だけど運動能力は良かったんだよ。戦場に出て死んだ仲間に言われたんだ、お前は奥の手なんだろ、って。彼は笑ってた、震えながら笑ってたよ…」 「スザク」 「君は、君達は、僕を死なせないためにいくら使ったのか知らないけれど、無駄な投資だったと思うよ、僕はこの家を出る」 「………え?」 スザクの言葉はルルーシュの身を刻むように感じられたが、最後の言葉が信じられず、ルルーシュは阿呆の様に目を見開き聞き返した。 「手紙が来たんだ、最後に一緒になった部隊にいた、死神って言われていた僕に親切にしてくれた人から。本当のいい人と言うのは彼みたいな人の事を言うんだきっと。死んだ部隊の仲間の家族に報告に行こうって」 「…それで?」 「…だから、僕は彼に会いに行って、その後は、死んだ仲間に挨拶に行く。」 「で?」 「全国を回ることになるから、僕は家を継げなくなるだろう、だから僕は家を出る…僕を拾って、育ててくれた養父上には悪いけれど」 「…お前は、俺も棄てるのか」 「…今は君も丈夫になった。君なら僕より良い経営者になれる筈だ」 スザクは先程から一時も視線を外さないルルーシュを訝しんだ。スザクの言葉を促す相槌は、表情なく機械的に呟かれているように見える。 「言いたい事はそれだけか」 スザクの言葉が途切れたのに気付いたのか、こくり、と稚い仕種でルルーシュが首を傾げた。 「あぁ」 いつしか夕日は沈み、窓の外の街灯が部屋の中に差し込んでいた。真っ暗な部屋の中、ルルーシュは危なげなくスザクの机に歩み寄った。 「…ルルーシュ」 ベッドに窓枠の形に切り取られた明かりが差し込んでいる。ルルーシュはその窓を背に立っていた。 窓から数メートル離れたところに据えられたベッドの足元に座っていたスザクからは、ルルーシュの表情が逆光で見ることが出来ない。 もう一度名前を呼ぶ。 「家を出るだと?ふざけるなよスザク」 静かにルルーシュが畳み掛ける。 「お前は言ったな、生きて帰って来たら俺のそばに居てくれる、と。なら、俺も連れて行ってくれるだろうな?」 「駄目な理由は先刻話した通りだ」 「認めない」 ルルーシュの手元でキラリと光るものがあった。 スザクは身体を震わせた。鋭く輝くそれは、スザクの机にあったペーパーナイフだ。だがいかにペーパーナイフと言えど、その鋭さとルルーシュの体重、そして場所に拠っては致命傷を負いかねない。 「ルルーシュ、」 「俺を置いていく?それならいっそ、この穢れた体ごと、」 たおやかな手は、それでもしっかりとナイフの柄を握っている。 ルルーシュの手が上がった。 スザクはルルーシュの手を止めようと腰を上げた。 と、前触れなく花火が 花を咲かせ、 女中が夕食の食器を取り落とした。 開け放した窓から破砕音が遠く聞こえた。 ―――同時にルルーシュが持つナイフが花火を写し滲んだ光を放って振り下ろされた。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 080721 ブラウザバックでお戻りください |